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【雑記】唐突な身の上話:父の日をうっかり過ぎた今日、父にメールをしたら電話が来た

※今回は、真の意味で【雑記】であり、100%自分語りの記事です。

母の日には、去年はハーバリウム、今年はMr.CHEESECAKEの母の日ギフトを送ったが、父の日はなんとなくスルーしがちでふと気づくと今年も1日過ぎていた。
何もしなくてもお咎めの連絡があるわけでもない。これまでも別に何か言われたこともない。ただ、先日、電車で1時間弱の距離に住んでいる妹と遊んだ際に撮った写真を母にも送っていなかったなと思い出し、今日の午前中にガラケーでも受信できるようリサイズして父のメールアドレス宛に送ってみた。

父は私が小学校6年生のときに脳卒中で倒れて以来、言葉をほとんど発せなくなった。右半身も思うように動かせない。それぞれ失語症、半身不随となんだかものものしい名前がついていたと思う。倒れた直後は1週間もICUにいて、植物状態になるんじゃないかと懸念されていた。しかし、当時まだ40歳そこそこだったこと、そして本人の懸命なリハビリのおかげもあってなんとか回復し、今は補助器具と杖があればゆっくり歩けるようにもなった。
コロナになる前、両親は休日によくショッピングモールに出かけていた。父は車椅子に乗って買い物や映画を楽しんでいたし、なんなら映画は障害者料金で見れるのでお得だそうだ。相変わらず洋画が好きで、私が派手なアクションシーンやカーチェイスを好むのは父の影響だろう。globeやユーミンが好きなのも、倒れる前はドライブ好きだった父が車でずっと流していたからだ。

1度だけ飛行機に乗って両親が東京へ遊びにきたこともあった。浅草やお台場、みなとみらいなんかを1泊2日で観光につれて回ったのはもう何年前だろうか。
バリアフリー表記があり、車椅子で来店を伝えていたにも関わらず、予約したレストランの入口に段差(数センチでも足の不自由な人にはかなり厳しい)があり非常に困った記憶がある。あのとき車椅子で観光をすることの大変さを身をもって知った。

気まぐれな妹と違って、私は高校を卒業と同時に家を出てからも必ずお盆とお正月は帰省をしていた。GWはまちまちだったが少なくとも実家を離れて10年のあいだ、1年に1度も帰らないということはなかった。しかし、コロナになり年老いた両親のいる福井へ関東から向かうのは気が引けてそろそろ2年近く顔を合わせていないことになる。

11時ごろスマホが着信を知らせ、画面を見ると“父”と表示されていた。
文字が打てないので返信はないだろうと思っていたが、電話が来たのは少し驚いた。父から電話が来たのは初めてだったかもしれない。会議までまだ時間があったので少しだけ…と思い電話に出てみた。
父は「久しぶり」とか「メール見たよ」とかそういう言葉は発せない。なのでこちらから「久しぶり!写真つけたけど見れた?今って家?」と聞いてみた。「うん」とか「ああ」とかは発せるので、それでなんとなく状況を把握する。どうやら家ではないらしく(運動や入浴のためにジムや病院に通っている)添付した写真は見れたらしい。「この写真はお母さんにも送ってないからお父さんにだけ!」と言うと想像以上に喜んでいた。言葉はないので、たぶんの話だが。
きっと話したいことはあったんだろうけど、言葉にならないのでもどかしそうだった。対面しているときはノートに文字を書いて伝えられるが電話ではどうしようもない。「待受けにしたかったら帰ったらお母さんにしてもらってね」と言って、仕事中だからそろそろ切るよと言って「またね」と電話を切った。ものの1分か2分ほどの出来事だった。

このくらいの歳の娘と父親は普通どんな会話をするのだろう。父娘でディナーや飲みに行くなんて聞くと少しうらやましいなと思う。でもメールをしてみて、父とほんの少し電話をしてみて、よかったなと思った。会話はできなくても相槌を聞けるだけで意味があった。
ふと考える。両親が元気なうちにあと何度、何日、何時間…顔を合わせることができるだろうか、と。だから今日聞いた声の記憶を書き残してこうと思った。特段おもしろい話でもなんでもないのだが、話せない父から初めて電話が来たのは嬉しかった。

今度会ったら父が好きなアンダーアーマーのウェアかナイキの靴を買ってあげよう。