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【雑記】社会人10年目:文章を書くことを仕事にするまで、そして今と未来

※今回は、真の意味で【雑記】であり、100%自分語りの記事です。

春は環境が変わり、新生活を始める方も多い季節だ。
自分はというと、2011年4月に関西から上京(正しくは神奈川)し、今年でついに社会人10年目と相成った。あっという間とは言いがたい、さまざまなことがあった10年であったが、1度の転職を経てそれなりに充実した社会人生活を送っている。
今回は職業選択、新卒で働いた会社のこと、転職したあとの仕事のこと、そして未来について、10年という節目を記録する意味で少し書き残しておこうと思う。
私よりずっと若い方には気楽に読んでもらいたいし、年上の方にはまだまだ甘いなと思われるような、平凡で華やかとは程遠いひとりの人間の話だがGWの暇つぶしにでもしていただければ幸いだ。

 

 

私にとっての「書く」とは

ライターと名乗ることの戸惑い

今、私はライターという職業に就いて日々を送っている。友人から「うちの会社に来ないか」と声をかけてもらい、未経験でこの職に転職してすでに2年半が経過したと気づき、時の流れの早さに驚いた。
自分の書いた記事が、物語が、誰かに読まれて、しかも何らかのリアクションがあるというのは嬉しいものだ。この趣味のブログもそうだし、長年書いてきた小説もそうだし、何よりも今は自分が書いた文章でお金をいただいて生きている。
私がプロとして文章を書いている一方、はてなブログはもちろん、Twitterやnoteなどを見渡してみると、プロでないのに文章を書くのがうまい人がたくさんいる。文章は漫画やイラストと違って、日本人であれば何も練習せずともある程度、それなりのものが書ける。それはもちろん学校教育の賜物でもあるのだろうけど。
時折、自分はこんなにも文章を書くのが好きなのに、なぜ下手くそで、相手に読ませる魅力もないものしか書けないのだろうと思うことがある。先輩が書いた記事はなんて読みやすくて、SNSで多くの反響を得られるのだろう。フォロワーさんたちは文章を書く仕事をしているわけではないのに、なぜこんなにも印象に残る140文字を書き残せるのだろう。うまい文章を読むとプロのライターを名乗るのが恥ずかしくなる。それでも毎日毎日書き続けているのだから人間というのは不思議なものだ。

そもそも文章を書くという行為そのものが不思議である。なんの資格も必要なく、誰でも思い立ったときに形にできる。今の時代、紙とペンがなくともスマホさえあればいつでもどこでも文章を書ける環境にある。SNSを使っていれば長さはともかく、ライターでなくとも毎日文章を書いている人は相当多いだろう。
特段練習しなくても読ませる文章を書ける人もいれば、ある程度ライティングについて学んでも閲覧数もシェア数もまったく伸びない文章しか書けない人もいる。そして一定のレベルを超えるには、やはり生まれ持ったセンスの有無が関係ないとは言いがたい。
「こんなに価値がある内容ですよ」というのを厭らしくなく相手に伝える文章を書くのは、頭で分かっているよりずっと難しい。感動する文章だって、笑える文章だって、自分がそう思って書いただけでは意味がない。読み手がそう思うことで初めて文章には価値がつく。
それでも仕事となれば課されたテーマに沿って、決められた締切までに文章を書き、編集さんの手が入るのでそれなりの形で世に出ていく。大部分に赤が入ることもあれば、ほとんど自分が書いた状態で公開されることもある。ジャンルにもよるとは思うが、書くのがそこそこ好きで、調査やスケジュール管理が苦手でなければきっとライターには向いている。私はインタビューは自分ではおこなわないので(同席して記事化するだけ)、コミュ障だが特に困ったこともない。

 

趣味を仕事にするということ

もともと「書く」という行為は単なる趣味だった。しかも作文の成績は決してよい方ではなかった。今でもハッキリと思い出すのは、小学校低学年のころに出された作文の宿題(原稿用紙半分ほどの短いものだった)で、お題に沿っていないからと書き直させられたことだ。低学年に出されるテーマすら読み解けない人間が、文章を書くことを仕事にするとはつゆほども思っていなかった。
同人オタクになり小説を書き出したのは中学1年生のとき。本当は絵を描きたかった。しかし、友人みたいにうまく描けなくて「小説ならなんとかなるかも」と書き始めたのが同人小説だった。まさか30を過ぎてまで続く趣味になろうとは思いもしなかったけれど。
同時期にHTMLを見様見真似で書いて個人サイトを作って、そこに小説を公開してみた。最初はアクセスカウンターはうんともすんとも言わず、いわゆる弱小サイトの管理人だった。しかし続けてみれば変わるもので、10、100、500…と増えていき、大学時代に運営していた小説サイトでは小さなランキングサイトのトップ1、2位を争うくらいの大きさに成長していた。これは私の数少ない自慢できる事柄のひとつかもしれない。
オフで同人誌を書いて何百冊と刷るような人たちとは違って、Web上でしか公開していなかった自分は、特段物語を書くのがうまかったわけではない。今になって言えることだが、自分が好きになるカップリングは3、4番手くらいの人気で「めちゃくちゃうまい作り手が比較的少ない、けれども読みたい人はそこそこいる」といううまい具合の隙間産業で成り立っていた。1番人気のカップリング小説を書いても見向きもされず、書くのを辞めてしまったことすらある。これがビジネスであれば、利益を出すためのそこそこいい戦略だったと言えるかもしれない。

学生時代の私は、小説を書く上で「承認欲求」「自己顕示欲」といったものを切り離せなかった。小説を公開して誰からも感想をもらえないと落ち込んだ。次は感想をもらえそうなストーリーにしよう…そう考えたとき、好きで書いていた物語が一気に陳腐になった気がした。趣味なのになぜそんなことを考えてしまうのか。小説を書くという行為すら億劫になってしまった時期もあった。
いつだって、1番うまい人・1番人気のある人は傍から見るとそういったものとは無縁だ。自分の好きなものを追求するだけで人気が伴う。凡人が一生懸命書いたまがい物とは格が違う。私は1番にはなれない側の人間だと常々感じて生きてきた。同人という趣味ですら他人と優劣を比較することを辞められなかった。
ライターという職について、またその感情を思い出すことになったが、歳を重ねた今無意味に嫉妬はしないし、できることをやろうという気持ちで日々仕事をしている。

 

工学部からエンジニアになった話

他の記事やTwitterで書いた内容と重なる部分もあるが、ライターという職に就くまでの話もしておこうと思う。

 

学生時代は漠然とした将来像しかなかった

高校1年生のころ進路を考えたとき、パソコンで何かをする仕事がしたいと単純に思った。それは個人サイトを作った経験からだったが、高校の担任に理系を勧められ、そのまま理系コースを選択した。ちなみに得意科目は国語と英語だった。
この歳になって思うが理系を選択したのは大正解だった。私が就職活動をしたときはちょうどリーマン・ショック後の不景気で、今見ても有効求人倍率がそこだけベコッと凹んでいる年だ。理系コースから工学部へ進学していなければ、おそらく正社員として就職することはできなかっただろう。面接で何十社も落ち続けるほどのコミュニケーション能力の低さでもなんとか正社員として、エンジニアとして、入社できたのは理系だったからだ。

正直工学部の学生としては落ちこぼれの部類だった。プログラミングの授業についていけず、物理も数学も苦手で友人や先輩からの過去問に頼りまくっていた。一般教養で選択した美術史の教科書を眺めるのがとても楽しかった記憶がある。(授業は結構居眠りしていたが…)
ただ、貧乏学生だったため授業料免除の申請を通すため単位と評点は死ぬ気で取った。授業料免除が通らないと大学に通えなくなるからだ。奨学金も借りていたし、バイトも掛け持ちしていた。理系は課題も多いので、今思い返せばなんてパワフルだったのだろうかと思う。
羽目を外して遊んだ記憶はあまりないがそれなりに楽しい学生生活だった。大学時代の友人たちは上京組も多く未だに連絡を取ることも多い。
そしてここまで読んでいただければ分かるとおり、技術力うんぬんでエンジニアになったわけではない。工学部情報系の学生が一番目指しやすいのがエンジニアだっただけだ。院進学する人もそこそこいたが、ほとんどの同級生はIT企業に就職したことと思う。専攻が仕事に結びつくのは、私のように漠然と大学を選び、特段夢のない人間にはありがたかった。

 

振り返ると思い出深い新人時代

ITエンジニアという仕事は、実は入社する会社の業態・業種によって随分違いがある。簡単に言うと、メーカー系、ユーザー系、独立系で性質はかなり異なるようだし(私はメーカー系に入社した)受託でシステムを作るか自社でサービスを開発・提供するかでも仕事内容だけではなく、かなり文化の違いがある。
本記事では、私が実際に就いていた受託開発を主とするSE(システムエンジニア)のことを言っているが、SEと言っても会社によって業務はまちまちだ。
学生にはそこまで分からない。なんとなく調べた上辺の知識で入社し、実際は入ってみると未知なる世界であった。分からないことがやまほどあって、分かったこともほんの1社の経験に基づくものに過ぎない。社会とはそういうものなのか、私の調査不足だったのか分からないが、社会人10年目にしても他の業界のことなんてさっぱり分からないままだなと思う。
ともかく従業員1万人を超える大企業に数百人の新卒同期たちと一緒に2011年4月に入社し、東日本大震災の爪痕が残る東京のオフィス……ではなく、配属は神奈川のやや落ち着いた街にある支社となった。建物はビルの一部を借りている本社と違ってまるごと自社ビルで古かったが快適だった。ドラマ撮影にも時折利用される高層階にある本社はエレベーター待ちで毎日大変そうだったからだ。

別の記事でも書いたことがあるが、寮と社食があるのは本当にありがたかった。古い体質の組織で年次が上がればある程度の昇給は見込めたが、新人の給与はそんなに高くない。しかも奨学金の返済が始まり余裕がなかった。東横線沿線のとある駅の最寄りに借り上げマンションがあり、そこに光熱費込みで数万円で暮らせていたのは相場が分かる人なら相当驚くだろうと思う。
寮はいろいろあったが楽しかった。特に研修中は同期と夜飲みに出たり、部屋でゲーム大会をしたり、誰々が早くも付き合い始めたらしいよと噂話をしたり。今思えば新卒のあの頃は青春の延長線だったのかもしれない。
配属が決まり、退寮者が出ると寂しかった。さらに年数が経ち、ひとりふたりと寮住まいは減っていって、結局私はその寮が老朽化で廃止が決まり強制退寮になる最後まで残ったが、そのころいたのはもう片手で数えるほどだったと思う。

 

SEとして過ごした20代に悔いはない

SEの仕事は私にとても合っていた。お客さま相手なのでキツい面もあったし、納期絶対主義だったのでかなり無理もしたが、20代で体力と精神力を相当鍛えられた。若い子に強いることはしないが、20代は多少無理をしてでもいろいろ経験したほうがよいと思うようになったのは自分が20代で得たことが多かったと感じるからだ。
まだ残業規制がそれほど厳しくない時代だったのもあって、会社で徹夜して朝タクシーで帰り、そのままシャワーを浴びて「ラブライブ!」のライブへ繰り出していった(グッズ列に並ぶため)のも未だにはっきり記憶に残っている。また、2度のイギリス出張と1度の中国出張、そして3週間のベトナム研修も今思えば誰もができる経験ではなかったなと思う。特にイギリス出張は観光する暇もないほど過密スケジュールだったが、行かせてもらえてよかったと思うし、今でも自分の糧になっている。

30代になっても仕事において「20代のころもっとあれをやっておけばよかった」と後悔することはあまりない。29歳で転職したとき志半ばの担当案件もあったが、概ねやりきった感があった。20代の自分は結構頑張っていたとちょっとだけ褒めてあげてもいいだろう。
というのも就活時に希望していた、公共交通機関のシステムを扱う部署に配属されたのも理由としては大きい。専門知識を先輩や上司から叩き込んでもらい、最初は打ち合わせの内容が1割も分からなかったのが、3、4年目くらいにはひとりで簡単な機能の要件定義くらいはお客さまとできるようになった。7年目に担当した大規模案件では、お客さまに非常によくしてもらい退職を告げるとお別れ会まで開いていただいた。(深夜のスナックで三代目の『R.Y.U.S.E.I.』をお客さまと一緒に踊り歌ったのも楽しかった。)
お気づきの方もいるかもしれないが、SEは会社にももちろんよるとはいえ、特にメーカー系は体育会系気質である。私がいたところは一般的にメージされる暗くてオタク気質の人のほうが少なかった。私は運動もお酒も苦手でどちらかといえばおとなしいほうだったが、OJTの先輩が陽キャ全振りの人でコミュ力おばけだった。誰からも評判のいいその先輩のおかげでうまくいった部分も多かったように思う。
10年経った今思うが、新卒はどの会社を選ぶか以上に配属先の人間関係がものすごく自分の社会人生活に影響してくる。私は本当に配属ガチャはSSRかURの引きだったと思う。

 

社会人生活は山あり谷あり

よいことばかり記憶に残っているのは自分の図太さを褒めたいが、ふと辛かったこともやはり思い出される。
かなりきつい案件で一人平日は大阪の親会社のオフィスにこもりきり、土日は関東へ帰ってきて休日出勤するというのをしばらく続けたことがあった。親会社の人に詰められたり、先輩が倒れて頼れる人がいなくなったり…実はあのころの記憶はあまりはっきりしない。辛くて逃げ出したくて、お昼ごはんを買いに出た先でそのまま戻らずに実家へ逃げようかと思ったことも何度もあった。
オフィスから徒歩で帰れる宿泊先のホテルでもノートPCを広げて仕事をしていた記憶がある。体が毎日重かった。しかし、就活で苦労した記憶から、ここで辞めたらまた就職活動をしなければならないという強迫観念が私をとどまらせた。今となっては「なぜあんなに思いつめていたのか?」「就活がなんだっていうんだ」と思えるけれど、当時は学生時代の一度きりの新卒カードを逃してはならないと必死だった。10年前の日本は今よりもずっと一度レールを外れると厳しい未来が待っている世界だったように思う。

そして私が転職する直接のきっかけとなった、新しくうちの部署に来て直属の上司となった人物との毎日のような言い合い(私が一方的に怒っていたことも多いが)は、今だからこそだが…もっと何かいい解決策があったような気もする。しかし当時はどうにもできなかった。
結局はキツい仕事は乗り越えられたのに人間関係がうまくいかずに転職という道を選んだのだ。SEという仕事を、エンジニアとしてのキャリアを諦めたのもこのときだった。

ときどきふと「SEを続けていたらどんな未来が待っていただろうか」と思うことがある。
転職を後悔しているわけではないが、できることの幅も広がってきて、後輩を指導する立場にいたころの自分。同期には負けたくないとがむしゃらに頑張っていた自分。あのまま続けていたらもっと大きな仕事もできていたかもしれない。“かもしれない”は叶うことはない。
一方で心身が耐えられずにぽっきり折れていた可能性もある。長く続けられる仕事ではないなと思っていたし、30を過ぎてあの働き方をするのはきっと辛いだろうという思いもあった。
社内政治と規律・規則で動いていた大企業から、ベンチャー企業に転職して、最初はカルチャーショックの連続だった。あの新鮮で気恥ずかしいような少々居心地の悪いような空気は、転職以外ではなかなか味わえない。

 

30代以降のキャリアをどうするか

今もなお試行錯誤の途中

転職後2年半経過したと書いたが、情けないことに今後のキャリアについてはかなり曖昧で、自分が5年後、10年後…それよりもっと先の未来でどうなっていたらよいのか実は定まっていない。
他の記事を書いたときもそんなことを言っていた記憶があって、恥ずかしいなと思いながら、それでもまだ自分の道を見つけられていない。ライター1本で食べていくほど秀でていないし、何か他のスキルと掛け合わせて自分の市場価値を高めていかないと歳を重ねるにつれて苦しくなっていく。模索しながら少しディレクターっぽい仕事をやってみたり、編集の仕事をやってみたりしている。
20代のころに比べて、新しいことを試すのがだんだん億劫になっていて、若いころ分からなかった「なんで上司は言動が凝り固まっているのだろう?」と言う相手だった上司側の気持ちが分かるようになってしまった。
SNSで若い子たちの言葉や、何か物事に対するリアクションを目にするとき、自分が無意識のうちに旧態依然とした思想に囚われていることに気づいてショックをうけることがある。過去の思い出に浸ったり、「あの頃はよかったよ~」なんて言いそうになったり。過去は過去で大切な思い出だが、今は環境ももっと言えば経済も政治も状況が異なる。過去に縋らず、今と未来をもっとよく考えて生きなければならない。

30を過ぎてもこの調子なのだから学生時代に「将来のキャリアを考えて仕事を選ぶ」なんてよっぽどの人でなければ難しいことなんだと思う。私は何か専門性やずば抜けたスキルがある人間ではないし、漠然としたやりたいことに近い道を選びつつ、いくらかは流れに身を任せて生きてきた。
「やりたいことがない」「将来の夢がない」と頭を悩ませる学生さんもいることと思うが、10代、20代というのは本当に無限に可能性が広がっている。もちろん30代になったからといってなにか制限があるわけでもないけれど、それでもやはり“若いころ”よりはいろいろな面で難しいことやハードルが高くなるシーンが増えてくる。
「好きなこと」「興味があること」がなければ、「嫌いなこと」「避けたいこと」から逆に考えて自分の将来を見つけてもいい。または「なんとなく続けてもそんなに苦じゃないもの」が向いているものである可能性もある。

 

社会人20年目を見据えて

社会人生活20年目を迎えるとき、私は40代に差し掛かることになる。30代でもまだ年齢に精神が追いついていない気がするのにもうあと7年ほどで40歳を迎えるかと思うと信じられない気持ちだ。
具体的な目標で言えば、今より年収が高くなっていたいし、仕事をもっと効率よくやって成果を上げたいし、なにかひとつでも自分にしかできない領域を見つけ出して力をつけたい。会社員である以上「会社にどのように貢献できるか」を考え、行動し結果を出すことからは一生逃れられない。年齢を重ねても価値を出し続けるにはこれまでと同じことだけをやっていてはいけない、それをしっかり頭に入れて仕事に向かう必要がある。

新卒のころは社会人としての生活が慣れればもっと楽になると思っていた。実際年収も新卒に比べれば高いし(転職で大幅に下がった話は別記事参照)できることも増えたはずだが、ある意味で難易度は年々上がっているように思う。
社会人歴が長くなるということは、それだけ期待値も上がる。一方で自分自身「ここまでが私の限界値」と決めて無意識にリミッターをつけていることにもふと気がつく。“慣れ”は悪くはない、けれど“狎れ”になってはいけない。

以前別の記事に「人間は逃してはならないチャンスに遭遇するときがある」というようなことを書いた。普段別に生きるための手段だと割り切って仕事をしても構わないし、実際に自分自身趣味に生きている人間だ。それでも5年、10年、20年…と長く続く自分のキャリアにおいて、そういった瞬間は必ずものにしなければならない。
自分の人生の選択を他人に委ねるな。この言葉を自戒を込めていつも心の中に留めている。何か意思決定が必要なとき、他人に流されてしまいそうなとき、仕事が辛くて逃げ出したくなったとき、10年の節目に書いたこの記事を思い返そう。

 

このような長々とした自分語りの記事をここまで読んでくださった稀有な方がいらしたら、本当にありがとうございました。近いうちK-POPマーケティングブランディングを絡めた記事もまた書きたいですね。